鎌倉高校の何気無い日常 再び 5







教頭と雨宮主任が酒井事務員の剣幕に、慌てて戻った職員室の扉を開けると、
そこは、いつもとは全く異質の雰囲気に支配されていた。
いつもだったら、
のんびりとお茶をすすりながら、窓側の椅子でスポーツ新聞を眺めている数学科の中田主任も
ブラスバンド部の指導にと、いつも机の上にスコアを広げて、タクトを振るって予習に余念のない有住学年主任も
それどころか、いつもなら美術準備室で次回の展覧会に向けて大きな油絵に取りかかっているはずの大西講師や
体育教官室に居るはずの体育科の教員方までが、なぜか職員室の各自の机に坐っている。
そして、誰も何も言葉を発せずにいるのだった。


   空気が重い……


職員室に入って2歩目に、早くも教頭はそう感じていた。


いつもなら和やかで、多少和気あいあい過ぎて緊張感が足りないと思っているこの部屋が


   何だろう……


そう教頭は思いながら、3歩目を踏み出した
その時


  「ちょうどいい。教頭の御意見を伺おうじゃありませんか」


英語科の古株・小堺教諭がそう切り出して、この重い沈黙を破った。


  「ああ、そうですね。どう思います? 教頭先生」


そう後を受けたのは、これまた古株の
(といっても公立高校のことだから、2人共せいぜいが7、8年のことだが)
体育科の東海林教諭だった。


  「え? はぁ?」


間の抜けた返事とも相づちともつかない声を発してから、自分の声に顔を赤らめる教頭であった。


  「事情を説明しないことには、教頭先生も返事のしようが無いでしょう、東海林先生」


そう、語気を強めて言うのは森田進路指導主事だった。


  「あ、あの、皆さん落ち着いて、ね。何があったのか知りませんが、日頃の皆さんらしくありませんよ」


  「次の聴講は体育が良いだろうと、そう我々体育科が提案したんです」


  「え? 兆候? 長江?? ちょうこう…」


  「今日、家庭科の調理実習に来ている聴講生の彼です。あの、確か平さんと仰った」


  「あ、ああ。その聴講……。そういえば確か、今朝の職員打ち合わせで彼、ここで挨拶したんでしたな」










  「え〜お早うございます。まず、本日最も重要な連絡です。では新井先生お願いします」


  「え〜、本日3、4時間目に3年6組が調理実習を行います」


「へぇ、今日か…」「え、そうだったっけ?」といった長閑な声が職員室のあちこちから聞こえてきた。


  「あれ!? 相馬先生は今日出張のはずじゃぁ……」


  「大熊、どうしたんだ?」


  「どうしたって、東海林先生。相馬先生が出張っていうのは、確か弓道部が県大会だからですよね」


  「当たり前だろう。あの弓道バ…、あ、いや弓道一筋の相馬先生がそれ以外で出張なんてするわけないだろう。
   この間も県の教科研修会にって言われたのを、何て言って断ったと思う?」


  「どうせ『弓道部の練習が監督できない』とかですか」


  「『私の留守中に弓道部で何か事故でもあったら、どなたが責任を取って下さるんですか』だと。
   ま、確かに一理あるんで、誰も反論できなかったって国語の斉藤先生がぼやいてたけどな」


  「確かに相馬先生が本校に赴任されて以来、並み居る伝統校、私立高校を押しのけて
   我が校の弓道部は神奈川県でも屈指の強豪校になったわけですから」


  「……え! 今日、弓道部いないじゃん!」


  「オレの言いたかったのもそこですよ。弓道部っていうより、2年の有川、今日居ないってことっすよね」


  「東海林先生、大熊先生、先だっての職員会議、お忘れですか?」


  「職員会議? 大熊、お前覚えてるか?」


  「え? いや、あの…、そん時、県予選のメンバー考えてたんで……。そう言う東海林先生は」


  「俺は…」


  「あの、話が進みませんので、お二人とも黙っていてください」


  
「やべ、新井先生、怒らせちまったぞ」


  
「それは、東海林先輩が……」


  「で、その聴講生の平君を御紹介します。鈴木先生」


そう言うと職員室の入口に立っていた家庭科の鈴木教諭は、ドアを開けて


  「お待たせ。さぁ、どうぞ」


と、やや上気した顔で廊下に控えていた平敦盛を呼び込むと、一緒に職員室の中央まで歩いた。
職員室の中央まで歩く間、職員室のあちこちから「え!」とか「へぇ!」とかいう感動詞が飛び交い、
それを我が事のように晴れがましく思う鈴木教諭であった。


  「さ、敦紀君。挨拶をお願いします」


  「分かった」


そう言うと敦盛は職員室に居並ぶ教員集団をゆっくりと見渡してから


  「平敦紀です。
   今日は『聴講』ということで、このように『高校』というところに招いていただき、感謝している」


そういって深々と頭を垂れる敦盛の姿に、溜息の漏れる職員室であった。










  「さあ、ではカボチャの種とわたを取り終わった班からこっちに持って来て。
   レンジで加熱しちゃいますからね。
   それから手分けして、野菜をサラダと煮物用に切り分けて」


調理実習室のあちこちから、トントンと心地良い包丁の音が響き始めた。


  「神、神子……あの…」


  「はい? なんですか? 敦盛さん」


  「他愛もない質問かもしれないのだが…」


  「何でも聞いてくださいね」


  「あの赤い野菜がトマトだというのは分かるのだが」


  「敦盛さん、凄いじゃないですか! トマトが分かるなんて」


その言葉に2人の近辺がにわかに殺気立つ。


  (望美ちゃん! それはいくら何でも平さんに失礼なんじゃないの?)


  (春日! こいつは病弱ではあっても、痴呆症じゃないんだからな!)


  (敦紀さんも敦紀さんよ! 望美にそんなこと言われて、何、嬉しそうに照れてるの!?)


  (分からないわ! この2人がどうして知り合ったの? 
   望美、あなたには有川兄弟がいるんだから、もういいじゃない!)


  (こいつは男なんだ、男……)


  「そのトマトやキュウリなのだが、それぞれのまな板毎に、切り方が違っているのは何故なのだろうか?」


  「え? 切り方が、ですか?」


その時初めて、実習室中の生徒が、互いのキュウリやトマトの切り方を比べ見ることとなった。


  「加藤君、ガタイに似合わず、何でそこまでキュウリを薄くスライスするの?」


  「え? 我が家うちのサラダはいつもこうだぜ。
   そういう良子こそ、そんなにキュウリ、ごろっとしたままのぶつ切りなの?」


  「変? 私の家では小さい頃から野菜サラダって、こんな感じなんだけど」


  「へぇ、山下さん家って、トマト、輪切りにするんだ」


  「そういう渡部っちはスイカみたいに切るんだ」


  「きっちり八等分なんだ。
   我が家はお祖母ちゃんもママもこう切ってるし、
   それにファミレスなんかのサラダもこんな感じじゃない?」


  「そうかな?」


  「先生、どういう切り方がいいんですか?」


  「え? 切り方?? そうね、正解っていう切り方は無いんじゃないのかな。
   食感や歯ごたえ、素材の味を重視するならなるべく大きめに切る方がいいでしょうし
   ドレッシングとか他の野菜との調和を重視するなら薄かったり細かかったりする方がいいでしょうしね。
   どの切り方にも、その御家庭なりの理由や伝統があるんだと思うわ。
   ちょうどいい機会だから、御家庭でどうしてこの切り方になったのか、聞いてみてください。
   次の時間に、報告してもらいます」


そう言いながら、これは面白い意見かもしれないとメモを取る鈴木教諭であった。










  「酒井君」


  「はい? なんですか事務長」


  「あの聴講生、実習終わったら、例のエプロンを返却に来るんだよね」


  「え、ええ。たぶん」


  「その時に」


そう言って事務長は机からデジタルカメラを取りだして


  「ちょうど昨日届いたんですよ。
   これで学校の日常をホームページにアップしようと思ったんですけどね。
   まずは、お初は彼と我々事務室のメンバーで撮る、というのはどうでしょうね」


  「事務長! ナイスなプランだと思います!」


  「では、どこで撮りましょうかね」


  「あそこの入口のところでは?」


  「いやいや、それでは逆光になってしまいませんかね」


  「あ、そうか。それじゃぁ……」


  「いっそのこと、応接室のソファーなんて、どうですか」


  「ああ、その後ろに、ロビーに飾ってある花を置いておくともっといいんじゃないですかね」


  「そうですね。では、さっそく用意しましょうか」


  「あ、あの、事務長」


  「はい?」


  「1つお願いなんですが」


  「はい」


  「私と平君とのツーショット、1枚お願いできませんか」


  「ええ、ええ。いいですよ。
   それに、こういう時、デジカメって便利ですよね。ここにどう写ったか、すぐに確認できるんですからね」


まだ1時間以上先の事だというのに、事務室全体がワクワクしながら準備に取りかかり始めたのだった。










     チン


  「えぇと、まずは1班から3班までだったわね。カボチャ、加熱終わったから取りにきて。
   こうして竹串で刺してみて、抵抗なくすっと刺さったら加熱が十分な証拠なので確認してね。
   4班から6班、次に加熱するからね。4班、早く持ってらっしゃい」


テキパキと電子レンジのカボチャを入れ替えながら指示を出す鈴木教諭であった。


  「カボチャはスープに入れる具と、プリンにする分に分けて」


  「プリン……」


予期せぬ敦盛の溜息まじりの一言に、実習室中が静まりかえった。


  「え? プリンがどうかしましたか、敦盛さん」


  「あ、いや。詮無いことだ、気にしないで欲しい」


  「でも」


望美が目で辺りを見るように促す。
実習室中の注目を浴びている己が身を理解する。


  「あ、……すまない。
   あの時、譲の作ってくれた『蜂蜜プリン』……、あの時の事が思い出されて…」


『あの時』がどの『時』を指すのか、望美にはまったく見当もつかず戸惑ってしまった。
その隙をついて


  「敦紀さん、プリン好きなんですか?」


  「え? ……ああ、そうだな」


美味しいプリンを作る
そのプリンを敦紀さんに食べてもらう
「おいしかった」と私だけに微笑んでもらう


完全に後半は妄想なのだが、ここで女子と若干の男子は、今回の調理実習に対する真剣みが急激に増したのだった。


  「で、プリンにする分はすぐに裏ごししますからね」


  「先生、裏ごしって失敗したりするとどうなるんです?」


  「太い食物繊維を取り除いている作業なので、手を抜くとプリンの出来上がりの食感が違ってきちゃうわね」


  「と、いうことは」


  「ほら! 男子! ぼけっとしてないで裏ごし2回はきっちりやりなさいよね」


  「に、2回!?」


  「3班が2回なら、5班うちは3回よ!」


  「熱々だけど我慢してね。まず、皮を剥いて。こう、包丁入れて、かぽっと削るような感じで、ね。
   すぐ取れるので、慣れれば簡単(熱いけど……)」


  「アチ!」


  「ホント、熱い!」


  「火傷しないでよ! ボウルで軽く潰してから、こし器で裏ごしします。
   熱いうちに頑張って裏ごししないと、冷めてからだとすごく重くなっちゃって大変になりますからね。
   時間との勝負だと思ってね。
   木ベらでごしごしと手前に引いて手早くこしましょう。これも慣れると簡単簡単」


  「って言うほど簡単じゃねぇんじゃん?」


  「うお! 熱いけど重いぃ!」


  「あの」


またしても、敦盛の一言に教室中が水を打ったように静まった。


  「あ、あの、その『うらごし』とやらも、やらせてはもらえないだろうか」


  「え〜! 敦紀さん、その指を火傷してしまいます」


  「い、いや。それはないと思うのだが」


  「や、やめといた方が、なぁ、春日」


  「いいんじゃない」


  「え〜!!」


  「何事も経験ですから」










  「では、次の聴講は国語ということで」


  「そ、そんな……」


  「おや? 何か御不満でも? 東海林先生」


  「い、いや、不満などは。ただ」


  「ただ?」


  「彼は身体が弱かったのでしょう。
   だったら、そういった方面から考えてもですね、保健体育が次は適当なのではないかと、その……」


  「各教科それぞれに、なんのかんのと理由や屁理屈の1つや2つひねり出せるでしょうから」


  「物理や漢文、どう理屈つけるんだっての」


  「大熊先生、こうなって遺恨を残す事の無いように
   各教科平等を期すためにアミダクジにしたんじゃ、ありませんか。ねぇ。成田保健体育科主任」


  「お、あ、ああ……」


  「それに、今回の聴講生という特例の目的は2つあります。
   その1つ、というよりも本来は、唯一の目的だったはずの
   春日望美さんのクラスの調理実習を安全に問題なく終わらせる事」


「うんうん」と職員室の空気全体が賛同する。


  「しかし、ここに予期せぬもう一つのファクターが加わった」


  「ファ、ファクタァ?」


  「ええ、当の聴講生が、この職員室の考え得る想像の限度を大きく超えていたことです」


  「想像の限度?」


  「彼が今朝、この職員室に入ってきた時の皆さんの反応はどうでした?
   『思ったより健康そうだ』『思ったより礼儀をわきまえた好青年だ』『思ったより素直そうだ』
   そして何より『思ったより美しい』」


  「な、なにもそこまでは……なぁ」


  「事実だからいいじゃないですか。
   これが、いかにも病み上がりの不健康そうな顔色の青年だったり、
   病気とは口実で実は集団不適応な陰気な引きこもり然としたニートでオタクな感じの青年だったとして、
   果たして皆さん、今のように教育意欲に駆られたでしょうか」


どこからも、あからさまな反論は聞こえてこなかった。


  「では5時間目は国語ということで。
   急ですが、国語科の先生は3時間目の休み時間に教科会議を行いますので第一会議室に御集合下さい」


  「何の会議?」


  「当然5時間目に授業のある国語科の、どのクラスで聴講を行うのか、ですよ」


  「では、6時間目のくじ引きを行います」


「今度こそは」……国語科以外の全ての教科の教員がそう思った。


  「オレじゃダメだ。誰か代わりに……。
   そうだ、長野、お前この前の県予選の抽選、良いクジ引いたっていってたじゃないか」


  「え? オ、オレっすか……。分かりました! 長野純一! 引いてきます!!」


  「よく言った! 体育科を代表して良いクジ引いてこい!」


各教科とも教科主任ではなく、それぞれの教科で一番くじ運の強い教員が任命された。


  「まあまあ、まだ、放課後の部活動というのも残ってますから」


いつの間にか、職員室を仕切る教頭であった。











11/02/12 UP

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